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バンゲア大陸論と隕石衝突

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 7月18日(水)15時47分28秒
返信・引用 編集済
  平さん、お返事ありがとうございます。

ちょっと、また昨日の続きで調べていたのですが、バンゲア大陸論からいくと、どうも6500万年前は問題のサハラ砂漠・・・、海の底だったようですよ(汗)

こちらのサイトと、そのサイトからの引用図をごらんください。
https://ameblo.jp/oldworld/entry-10362044202.html


また、南極大陸もオーストラリアとつながっていて、少し北方に位置が変化してます・・・。

以前、平さんの南極大陸が隕石衝突によって生成したとの説からヒントを得て、地球の大陸自体が、概ね隕石衝突に由来することを考えた経緯がありましたね。

それで、火星の大陸がやはり北半球に密集していることからみて、地球もある時期に隕石が北半球の一点に集中してぶつかった結果として、北半球に陸地ができあがったものの、その後、火星とは異なりプレートテクトニクスによって、徐々にその大陸が移動していった経緯を予想しました。

そうすると、南極大陸も、最初は北半球にあり、徐々にオーストラリアなどとともに、南下していった可能性もあるでしょう。

だから、平さんも、その南極大陸が隕石衝突によって成立した主張なさるときには、もっと北方の位置にオーストラリアとセットで存在していたという仮定のもとで、論じられてみてはいかがでしょう?

ただ、バンゲア大陸自体は、2億年前とさらに古く見積もられているのが課題ですね。個人的には、あまりあてにならない年代推定ではないかと考えてますが、いかがでしょう?

正直なところ、先の縄文時代の津波堆積物のc14年代にも、海洋リザーバー効果など数百年の誤差がありますし、あまりそれだけに依存しすぎるのは危険かと感じてますし、それに一喜一憂していても、先には進めないとおもうんですね。

年代論も重要ですが、まずはそれ以前の基礎理論構築の方から進めるべきかと感じます!


 
 

Re: 大津波と古代文明

 投稿者: 史実探偵: 平 素人  投稿日:2018年 7月18日(水)01時34分46秒
返信・引用
  管理人さま、情報ありがとう御座います^^♪。

  ヴァン湖の存在、初めて知りました(^-^!)。
たいへん興味深い調査が積み重ねられているようですね。
高地へ運ばれた海水湖。火山による?塩水の化学変化? 湖底の大量腐泥の堆積層。未確認生物ジャノ。等々、6500万年前からの歴史が、“この地に凝縮されている” ようで、とても興味を感じます。

> 6500万年前の大津波はすごかったでしょうね・・!ほとんどの生き物は生き残らなかったわけですからね。
> ご指摘の塩水湖の件は興味深く感じます。確かにどうして、高地に塩水ができてくるのか・・。


ヴァノ湖で日本人(  氏)の、未確認生物ジャノらしきものの映像があったが、アンビリバボーTV にはならなかったとか。このように大洋へ流出口をもたない盆地では、6500万年前の超巨大津波で運ばれた海水はだんだんと凝縮されて死海のように濃くなっていきます。バイカル湖は小さいながらも流出口があるので汽水期をへて淡水化しました。海水が雨水によって長期にわたって徐々に淡水化したために、海洋性のイトウは、それに対応するように進化しました。ヴァノ湖には必ず海洋性の魚がいると断言できます。「汐を吹くという未確認生物ジャノ」の件ですが、わたしは、鯨やダイオウイカ(その他)は、6500万年前の生き残りと思っています。なぜなら南極大惑星>衝突直後にくる大氷河期においても、海水が保温の役目をし、生存可能かと思うからです。ヴァノ湖の場合は、そばに火山帯があり、これが保温の役目をし、魚竜類が生き残れる広さと、冷え切らずの水深があれば、未確認生物の残存の可能性は大となります。それには現在の湖底温度が同様の湖より高くなければなりません。ぜひにこの調査もしたい^^。それと湖底で塩漬けになっているかと思われる恐竜類も捜したいものですね^^! 甲殻類は残っているかも(笑い)。


> そして人類が運ばれたのが、ノアの箱船伝承となりそうですが(汗)・・・、可能性はゼロではないかもしれません。

管理人さま
 今回は、こちらの方が主題^^!。2000年前のミイラ取りが、6500万年前のミイラ取りになってしまったのではァ~~~~^^!
 

Re: 大津波と古代文明

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 7月17日(火)19時37分8秒
返信・引用
  > No.60[元記事へ]

平さん、お返事ありがとうございます!

6500万年前の大津波はすごかったでしょうね・・!ほとんどの生き物は生き残らなかったわけですからね。

ご指摘の塩水湖の件は興味深く感じます。確かにどうして、高地に塩水ができてくるのか・・。

先日お話したアララト山周辺へ押し寄せた津波と関係しそうなものとして、そばにあるヴァン湖が挙げうるかもしれません。

ヴァン湖

湖水は強アルカリ性(pH 9.7?9.8)で、炭酸ナトリウム等の塩類が豊富であり、水分を蒸発させて洗剤として使われる[7]。流出する河川が無いため、流入する河川の酸素濃度によっては化学変化を起こして白濁し、地元では「水の色が七色に変わる」と言われている


湖の水位はしばしば大きく変動している。オズワルド(1901年、"Geology of Armenia")によれば、タトワン(トルコ語版)付近では現在の湖面より高い位置の隆起海岸や近年水没した木々もある。1980年代初頭のDegensらの研究では、約18,000年前の氷河期の間は現在より水面が72メートル (236 ft)高かったことが判明した。約9,500年前には劇的な水位の低下があり、現在より300メートル (980 ft)以下の水位となった。続いて、約6,500年前には水位の劇的な上昇が起こっている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E6%B9%96


6,500年前に何かあったかもしれませんね。

また、飛び地の件について、丁寧にお返事ありがとうございました!

なるほど、ご指摘のように、大津波によって、生物がはるか遠く、高くにまで運ばれた可能性がありそうですね。

そして人類が運ばれたのが、ノアの箱船伝承となりそうですが(汗)・・・、可能性はゼロではないかもしれません。


人類の構造物のうち、比較的質量の軽いものは、水に浮いて、遠くまで流れ着くかもしれませんね。

最近でも、東日本大震災のときのプラスチックや木材が、アメリカにまで流れ着いた話がありました。

古代文明であれば、木材や丸木船、骨格器、あたりは流される可能性があるでしょうか。

逆に土器などは重いので、大津波後も、集落の側溝などに重なって沈み込んでいるのが、出土しているのだろうと思います。

最近でいえば、利尻島に、熊が泳いで渡ったらしいですね。数十キロとか泳ぐらしいです。津波でも生き残れるかもしれません・・。
 

Re: 大津波と古代文明

 投稿者: 史実探偵: 平 素人  投稿日:2018年 7月16日(月)23時53分39秒
返信・引用 編集済
  > No.59[元記事へ]

管理人さまへのお返事です。
>
> 平さんご注目のエジプトにみえる扇状地?は、南からの流れのようにも見えます・・・・。
> あと、先のサハラ砂漠周辺にみえる洪水・津波痕跡の件で、砂漠化の原因に、津波による森林伐採、海砂の流入やそれによる塩害で植物が育たないといった要因はないかと感じます。


 ゴメンナサイ。図の扇状地は6500万年前、南極側から北上し地表の90%を覆った巨大津波によるもので、今回捜している約2000年前のものとは異なります。ちなみに、その時の超巨大津波の塩海水は地表の90%を覆っていますから、サハラ砂漠で見つかるその岩塩や塩水湖の存在は不思議ではありません。そして、「鶏がさきか卵がさきか」の問題になりますが、サハラ砂漠は、6500万年前の超巨大津波が運んだ砂流痕だと(私は)断じています^^!。

> 大津波が世界中の平地を駆け巡り、主要な生物を滅ぼしていった歴史が繰り返されてきたであろうことは、以前もお話ししたギリシャの歴史記録などにも描かれているとおりです。

「ギリシャの歴史記録」とても興味があります。大津波が世界中の平地を駆け巡り」とあるのは、今、シモさまが追求されようとしている巨大隕石(小天体)による津波のことではないでしょうか? わたしは「紀元・元年とするには、紀元のその時、人心を揺るがすような「巨大隕石」があったと!にらんでいるのですが、管理人さまが色々に上げられている天体の周期性や海進海退、寒冷化の年次には、それに該当するものはありません。(2004年前があったかな^^??)

 “隕石の冬”を伴うためには陸上に衝突し粉塵を舞い上げなければなりません。それが海であれば、その小天体のサイズと海の深さの相関関係にもよりますが、水分の舞い上げはあっても粉塵の舞い上げはほとんど起こらないのではないでしょうか。だから捕まらなかった???

   隕石の冬を伴わない(地中海)海上を捜せ!

<今までの情報として>
ギリシャの平地を覆う津波、エジプト30m級の津波、シナイ半島の白砂、トルコ・アララト山の方舟説、この4点の中心は、管理人さまのいわれる、クレタ島とキプロス島の中ほど。わたしは、アララト山に方舟を登らせたいので、キプロス島よりにして、トルコがV字湾奥になる位置をお勧めしました。(まるで捜査会議みたい-笑い)
 精査ではありませんが、Google Earthでは見当たりませんでした^^!。

> これが、古代史掲示板の山海経の分析で浮かび上がってきたその扶余地域にみえる白民国、東胡といったコーカソイド系を思わせる民族、や習俗記載ですね。
> 飛び地の構造と名付けたいところですが、いつも大きな集団からはるか外れた地域に飛び地のような分布ができる構造、これを解明する必要があります。
> この飛び地の離れにいた集団は、元の大集団がなんらかの災害で滅んだのちにも、生き残って新人類を生み出す可能性がある点で重要です。
> この飛び地の構造について、平さんやみなさんはどうお考えになられますか?


 ゴメンナサイ「山海経」は難しすぎてわたしには、まったく解りません。
「飛び地」について、
 DNAについて以前に論議されていました。人間にかぎらず「種の移動」についての思いを述べます。
思いつくとこで、渡り鳥、風雨海流、寒冷氷河期温暖化、海進海退、冒険探検、遭難漂流、植民地化、等々があります。この中で一つ欠けているものがあります。それは<巨大津波>です。
 例えば、モンゴロイドが間氷期、あるいは氷河期で陸続きになったベーリング海峡を渡って、北米大陸、中米、南米大陸の南端に渡った。という説があります。わたし素人は、これに大きな疑問を感じます。人間の第一とすることは、“食料”これが得られなければ人々は移動を始める。なにも、南米大陸の南端までいかなくても途中にいくらでも、その食料を得れるところはあるだろうにと思うのがこども心^^!。東南アジアあたりに南下するほうがもっと易いとおもいます。でも現実として、そのDNAを持った人たちがいる。

 人間ばかりではありません。動植物・種の移動の「飛び地」については先様方のほうが詳しいので申し上げませんが、津波の大洋でのスピードはゼット機なみ、一日あれば地球の裏側まで進みます。チリ地震で起こった津波が、約一日後に三陸海岸にとどいた記憶があります。話は変わりますが、ナスカの地上絵に、この地にはいるはずのない尾長ざるが描かれているものがあります。日本列島をふくむ弓状ラインは地震の巣です。ここで発生した巨大津波の流木に乗って移動したと言っても否定できるものではありません。
 もう一つ、おもしろいことを申し上げておきましょう。東南アジアの島々の中ほどに東西に分けて淡水魚のすみ分けラインがあることを英学者が見つけました。淡水魚は海を渡りません。わたしはこれを南からの巨大津波にのって運ばれたものとしました^^!。

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html

 

大津波と古代文明

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 7月16日(月)13時23分32秒
返信・引用 編集済
  平さん、さっそくお返事ありがとうございます!

やはり隕石の落下地点、先日の地中海東端に戻したほうがよさそうですね!

たしかにご指摘のように、津波と洪水の相違は、その流れの向きにありそうですね。

平さんご注目のエジプトにみえる扇状地?は、南からの流れのようにも見えます・・・・。

その年代の確定には、地層から推定するしかないかもしれませんね。

ご指摘のように、水流の流れの中で、同じ質量密度のものが固まっていくのは自然です。遠心分離機の原理ですね!

火山灰の分布などにもその影響があるそうです。重いほうが遠くへ飛ぶといったケースもあり、計算が必要そうです。

あと、先のサハラ砂漠周辺にみえる洪水・津波痕跡の件で、砂漠化の原因に、津波による森林伐採、海砂の流入やそれによる塩害で植物が育たないといった要因はないかと感じます。

こちらはサハラ砂漠の砂漠化の年代についてです。

サハラ一帯は、完新世(1万年前 - 現在)以降は湿潤と乾燥を繰り返して来た。20,000年前から12,000年前はサハラ砂漠が最も拡大した時期で、現在のサヘル地帯のほとんどがサハラ砂漠に飲み込まれていた。その後最終氷期の終焉とともにサハラは湿潤化を開始し、およそ8,000年前にもっとも湿潤な時期を迎えた。この時期の砂漠はアトラス山脈直下の一部にまで縮小し、サハラのほとんどはサバンナやステップとなり、森林も誕生した。7,500年前に一時乾燥化したがすぐに回復し、5,000年前までの期間は湿潤な気候が続いた。その後徐々に乾燥化が始まり、以来現在に至るまでは乾燥した気候が続いている。5,000年前と比べると砂漠の南限は1,000kmも南下している[8]。乾燥化は歴史時代を通じて進行しており、砂漠の南下も進行中である。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/サハラ砂漠


ようするに5000年前まではある程度湿潤だったものの、その後のなんらかの契機で砂漠化したと考えうるでしょう。

その原因のひとつが、先の紀元前2700年前後の津波と予想しうるでしょう。

地中海の海水が北アフリカを覆ってしまったために、前述の理由で、砂漠化が進んだのかもしれません。

これは、アラビア半島やシナイ半島、メソポタミア方面でも同様です。


それで、その洪水の生き残りが次の世界の主役となったとの考え方ですが、これは平さんご注目の恐竜絶滅後の歴史にもあてはまりそうですね。


大津波が世界中の平地を駆け巡り、主要な生物を滅ぼしていった歴史が繰り返されてきたであろうことは、以前もお話ししたギリシャの歴史記録などにも描かれているとおりです。

先の投稿では、Y染色体R1bの分布の起点が、カスピ海東部にあることを指摘しましたが、またヘブライ人の祖先とかんがえるQ系統の分布でも同様な分布が見えることに注目したいところです。図1のとおりです。こちらのウィキから引用しています。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ハプログループQ_(Y染色体)

さらに北部のアルタイ方面にもそれ以前の起点があります。


これらののちの新人類を創生したQR系統の集団は、紀元前3000年ごろには、カスピ海東部に農耕文明を築いており、その後、2700年ごろの大津波によって、地中海諸地域の集団が滅んだのちに、南下して、新しい時代を築いていったのでしょう。

それで、これらQR系統でもうひとつ共通しているのが、満州・扶余方面にみえる分布なのです。

これが、古代史掲示板の山海経の分析で浮かび上がってきたその扶余地域にみえる白民国、東胡といったコーカソイド系を思わせる民族、や習俗記載ですね。

飛び地の構造と名付けたいところですが、いつも大きな集団からはるか外れた地域に飛び地のような分布ができる構造、これを解明する必要があります。

この飛び地の離れにいた集団は、元の大集団がなんらかの災害で滅んだのちにも、生き残って新人類を生み出す可能性がある点で重要です。

この飛び地の構造について、平さんやみなさんはどうお考えになられますか?

 

Re: インダス文字と縄文土器2

 投稿者: 史実探偵: 平 素人  投稿日:2018年 7月15日(日)01時59分8秒
返信・引用 編集済
  > No.56[元記事へ]

管理人さまへのお返事です。

 つづいてのご記事が入ってました^^。

> 特にカスピ海東部から先のエラム方面への分布が見えますから、原エラム語の子孫にあたるエジプト、セム系、インドヨーロッパ語族の原点はここにあったことが予想されうるで しょう。
> その洪水の痕跡ですが、図3のように、サハラ砂漠や、アラビア半島の砂漠領域に残る縞模様の方向が、その洪水の流れを示している可能性を感じます。赤→で示したのが、その流れと方向です。
>
> 地中海周辺に隕石が落下し、それによる洪水が、エジプトからはるかアフリカ大陸奥へと、またメソポタミア一帯を襲ったことようにも見えます。
>
> その際に、図に記したアララト山に、巨大木造船が打ち上げられたことが、後代のノア洪水伝承へとつながっていった経緯を予想します。
>
> そして、地中海文明で、その洪水から逃れられた地域について考えていくと、先のカスピ海東部あたりが予想されうるでしょう。


だんだんに絞られてきましたね^^。
トルコのアララト山へ方舟を運ぶには、巨大隕石の落下地を現在より、もう少し東よりにして、トルコのアダナあたりがV字湾奥になるような位置を考えられたらどうですか?? ここだと、世界の紛争地の中心エルサレムやその周辺の谷々。そして、先ほどのシナイ半島やピラミッドにも近くなります。アララト山へ舟を運ぶにはどのサイズの津波の大きさが必要かの計算はシモさまのお得意分野^^。年次についてはまったく分かりません^^!。
・・・では、では・・・^^!

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html

 

Re: ピラミッド

 投稿者: 史実探偵: 平 素人  投稿日:2018年 7月15日(日)00時08分12秒
返信・引用 編集済
  > No.54[元記事へ]

管理人さまへのお返事です。

> それで、吉村氏の「埋もれた古代文明の謎」との本を読んでいたのですが、ピラミッドの女王の間から、シナイ半島由来とおぼしき鳴き砂が大量に見つかったとの記載を読んで興味深く感じました。
>
> それが、シナイ半島から砂を運んだとすると、ちょうど、ピラミッド周辺の標高が30m前後ですから、50m以上の津波、おそらくは沿岸部では100mを超えるような大津波が起こった可能性を感じますね。
>
> 地中海など、どこかに隕石が落下して、大津波をもたらした可能性を感じます。
>



<フク王ピラミッド・女王の間にシナイ半島由来とおぼしき鳴き砂が大量>
私は、この件を次のように考えます。
 『 洪水と津波について、』
洪水と津波は「似て、まったく非なり」と考えています。おおざっぱにいうと洪水は雨水で。津波は地震や巨大隕石の落下によって起きます。巨大隕石の周期周回性については、先様の専門です^^。津波」は、いまや国際語ですが、津波の多くを経験していない大陸や欧州人にとって、多くの人は津波と洪水を混同して考えているようです。津波と洪水の被災はたいへんよく似ていますが、大きく違うことがあります。

 洪水の多くは気象や高潮によって起き、イメージとしては<水位の上昇か>と思います。ところが、隕石で起きる津波の場合は、何の前触れもなく巨大な火の玉が衝撃波を伴い天から落下して巨大地震や巨大津波を伴うトリプル災害ですから人心へ与える影響は、気象で起きる災害とは比べものになりません。人々の驚愕は推してしかるべしです。

決定的に異なるのは洪水は川の上から。津波は、川下から上陸し、そこがV字地形であれば山へも駆けのぼります。津波で最も恐ろしいのは、東日本大震災でも経験しましたが、山斜面に駆け上った津波が下るときに、土石はおろか巨岩までも持ち込んで低い方に集まりながら、その斜面をえぐり取りながら下ることにあります。いかに巨岩といえども濁泥中でアルキメデスの浮力が働きますから軽々と運ばれてしまいます。それが山や丘を越えた場合も同様の結果を招くことは、四千年前の東北小天体で発生した北上高地越えの巨大津波で巨岩を運んでいると奥州市・岩淵先生も指摘されています。

そして、津波は、その落下地と地形の関係によっても大きく異なることは以前に申し上げました。特に注目したいのは、津波の上流に土石地帯があることと、筆者の提唱する津波の進行方向が「片V字沿岸津波」の関係にあることです。この場合も、岩石で岩石を削りながら徐々にその威力を増します。そして、その力が衰えてくるところに砂粒を積み上げます。これは、通常河川の様相と全くいっしょです。津波の力が水という媒体によって運ばれるとき、物質は似たものは似たもの同志に効率よく分別される『筆者提唱:同似集合の原理』は、以前に申し上げましたが、巨大津波の場合は洪水よりも、この力がより強く働きます。

<シナイ半島由来とおぼしき鳴き砂が大量>
「鳴き砂」をその友好地では「鳴り砂」と呼ぶことにしよう。というのはご存知かと思いますが、それが石英砂粒であるのもご存知のとおりです。日本各地の沿岸に多数あります。私は、その多数は四千年前の巨大津波に由来するかと調べかけましたが、そのままになっております^^!。その広大なものは「前述の南アメリカ大陸を北上してブラジル高地の北端に」白い砂漠〇〇があります。このように、巨大津波は石英分や貝質分を津波の弱まった場所にそれを集めます。中国桂林、ドーバー海峡の白亜の壁岸も、山口秋吉台も、そのいう6500万年前のものですよ。といったら増々相手にされそうもないのでここで止めます(笑い)。この考えは子供のころの海岸で「なぜ貝殻は貝殻で集まり、散らばっていないの??」がきっかけでした。

 その昔、洪水で多くのヤギが流されて海岸に埋まりました。反対に津波で大量の魚介類が陸中深くの山間に積み上げられました。後世の人はこれを見て「この海岸は昔は山だったとか、その陸中は海の底だった」といえるだろうか(笑い)。と云ってるのが現学ですよね^^!拙:絶版報告書より、


そのピラミッドの王墓の女王の間に、そのシナイ半島・津波由来の “聖なる白砂” を敷きつめて「安らかに御眠り下さい」と考えるのは素人探偵の思い過ごしでしょうか。


欧州には根強いメシア(救世主)待望論があります。ここからを『紀元の始まり』にしようというからには、そこに、その時、だれもが「畏怖・驚愕」するような相応の大事変がなければならない!! その大事変を起こした巨大隕石は地中海のどこかに隠れている。それを捜すには、地中海海没神殿や、トルコ山腹の海成物の物的証拠に限らず神話等々の伝承に耳を傾けるとより多くがみえてくる。「神」の考えが人心に生まれるのは自然に畏怖・遭遇した時、以外には考えられないとするのが素人探偵の論理です。しかしながら、わたしには、それを捜す「気力と根気」が残されていません^^!。

 表題からは外れましたが、GoogleEarthでシナイ半島・エジプト周辺に6500万年前の北上する巨大津波が造った巨大扇状痕を発見けました。何波か遅れてのものだと思います^^!

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html

 

インダス文字と縄文土器2

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 7月14日(土)20時55分2秒
返信・引用 編集済
  昨日とりあげましたインダス文明・文字と縄文後期前半の土器およびそこに記された文字?についての比較ですが、またその後も調べを進めています。

まず、インダス文字については、エジプトのヒエログリフ、原エラム文字との相関性が認められていますが、そのエラムについては、今のイラン方面ペルシャ湾沿いとなるようです。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%A9%E3%83%A0

そのインダス文明は、アラビア湾を経由して、シュメール文明と交易していたことが確認されており、言語面でも相関性が見いだされること、それらの文明が相関性をもって発展してきたことがわかります。神殿などの構造もよくにてますね。

それで昨日は、HLAハプロタイプのB7の分布と、それらの文化との兼ね合いを予想したことがありました。

その分布域はアイルランド、欧州、アゾレス諸島、カメルーン、マリ,ウガンダ、サウジアラビア、日本、アフリカ、インド(ムンバイ・マドラス)、韓国などが挙げられますが、また、Y染色体ハプロタイプからも迫れるのではないかと感じます。

その場合は、ケルト人に多いR1bとなりそうですが、その分布は下記のwikiのとおりです。図1として引用します。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97R_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)


こうみると、先のHLA-B7の分布とよく似ており、イラン方面、アイルランド、エジプト、カメルーン、朝鮮東北部といった分布で一致するでしょう。

それらの集団が、紀元前2700年前後に、なんらかの契機により世界中に拡散したことによって、ストーンサークルや環状列石、ピラミッドやモヘンジョダロのような巨大石造物などが各地で造られ、また関連の原エラム語系の言語や文字、農耕技術なども伝播していったと考えるのが自然です。

そのエラム語については、下記のwikiに記されているようにインダス文明との関連が指摘される「ドラヴィダ語や、ウラル語族、アルタイ諸語の間には文法の著しい類似性が存在し、このことは両者が共通の起源より派生していることを示唆する。両者の共通祖先としてエラム語の存在を位置づけることができるかもしれない。 」とのことです。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%A9%E3%83%A0%E8%AA%9E


それで、問題は、その元となった集団が、最初にどこにいたのか?とのことでしょう。

先のR1bの分布図をみると、カスピ海東部とウラル山脈付近に、濃い分布域があることに気づきます。そのウラル山脈周辺は、ウラル・アルタイ語の発祥地とされますから、先の原エラム語とウラル諸語との関連も想起させます。

特にカスピ海東部から先のエラム方面への分布が見えますから、原エラム語の子孫にあたるエジプト、セム系、インドヨーロッパ語族の原点はここにあったことが予想されうるでしょう。

実際、人類最古の農耕集落とされるアナウ遺跡がこの地にあるのです。

アナウ遺跡について
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%A6

それは、紀元前3000年ごろで、彩文土器が見えることは重要です。文字文化の発生時期とも重なりますね。

そして、東北地方と同緯度にあたり、縄文後期前半当時は、温暖化の影響で、文化を育むのに最適な緯度だったと考えうるでしょう。

その後の寒冷化とともに、現在のように、さらに南方へと文明の中心地が移動していったことも考えうるのですが、またそれとは別の要因で拡散した可能性も感じます。

それは、先日も指摘したように、紀元前2700年前後に起きた大洪水で、地中海周辺の諸文明が滅んでしまったことにより、生き残った高台の文明人が幅を利かせはじめた可能性です。

その洪水の痕跡ですが、図3のように、サハラ砂漠や、アラビア半島の砂漠領域に残る縞模様の方向が、その洪水の流れを示している可能性を感じます。赤→で示したのが、その流れと方向です。

地中海周辺に隕石が落下し、それによる洪水が、エジプトからはるかアフリカ大陸奥へと、またメソポタミア一帯を襲ったことようにも見えます。

その際に、図に記したアララト山に、巨大木造船が打ち上げられたことが、後代のノア洪水伝承へとつながっていった経緯を予想します。

そして、地中海文明で、その洪水から逃れられた地域について考えていくと、先のカスピ海東部あたりが予想されうるでしょう。

つまり、ここに残っていた紀元前3200年~2700にかけて発展したアナウ遺跡周辺の文明人が、2700年前後の洪水の後に、地中海や欧州、インド方面へと進出し、最終的には縄文時代中期前半に日本にも至ったのではないでしょうか。

その担い手は、Hla-B7、R1bといった遺伝子をもち、原エラム語・文字を有していたのでしょうから、それらの痕跡を、縄文後期前半の人骨なり、土器なりに見いだしうることができれば、その証明も仕上がってくるはずです。

あと、それに関連しそうな文字としては、次のものがあります。

まずは平さんもご注目のイースター島にあるロンゴロンゴ文字、そしてエクアドル南部のセム系?文字がありますね。

こちらのサイト参照。
http://takion.d2.r-cms.jp/topics_detail1/id=19
https://www.weblio.jp/content/%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B4%E6%96%87%E5%AD%97

また、北海道余市周辺のフゴッペ洞窟に刻まれた文字、特に人・天使?の描き方にも、共通性を感じます。図も下記サイトから引用添付します。
https://www.travel.co.jp/guide/article/21119/

そのフゴッペ洞窟のすぐ近くには、忍路環状列石があり、この環状列石も先のように縄文時代後期前半の紀元前2700年ごろとなるわけですね。

再度、こちらのインダス文字についての論文も引用しておきますね。
http://ufdc.ufl.edu/AA00013642/00001/257x

この文字にも、壷とか、人とか、羽の生えた天使?、弓のイメージなどの共通性があり、これは昨日の縄文土器の記号のような紋様とも関係してくるでしょう。

それで、その文字文化を有した地域においては、さらにその後紀元前2000年前後に、再度、隕石落下と大津波が襲いかかったと我々は考えてきたわけですが、その痕跡が文字や記号紋様に刻まれている可能性があるのではないかと考えたことが、ここ最近の研究課題だったわけです。

その具体的な資料としては、まずはシュメール石板、またエジプトのヒエログリフの記録がありますが、特にこのインダス文字の解明によって、その当時の災害記録を見いだしうることができるかもしれません。

シュメール石版にも、紀元前2000年前後に、悪しき風によってウル(第三王朝)が衰滅んことが記されており、これも内陸部への隕石落下の影響と考えた次第ですが、また平さんご指摘のように、インダス文明でもその時期に衰退しはじめることとなり、さらに先日指摘したように、インダス文明には数度の洪水の痕跡も残されているとのことですから、あるいはインド海やそれより東方地域においても、隕石落下があり津波が起こっていたかもしれず、そういう意味でも、そのインダス文字の解明が、まずは第一かと感じますね。

またご意見などございましたら、お気軽にお知らせください!
 

インダス文字と縄文土器

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 7月13日(金)12時26分16秒
返信・引用 編集済
  昨日の投稿でお触れた紀元前2700年前後に起きたであろう洪水災害の件で、またインダス文明について調べていました。

特にモヘンジョダロといった高度な文明をもった遺跡があり、紀元前2500年から紀元前1800年にかけ繁栄し、最大で4万人近くもいたのですが、大規模な洪水で衰退したと考えられているそうです。平さんもその辺、ご指摘されていたような・・・。

モヘンジョダロ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%98%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%80%E3%83%AD

それで、そのインダス文明の文字がまだ未解読とのことなのですが、この文字の一部が、先日指摘した縄文後期前半の土器に刻まれた文字のような記号とよく似ていることに気づきました。

具体的には、図1がその縄文時代後期前半(紀元前2500年ごろか)の青森県八戸市韮窪遺跡(前入江・十腰内様式)から出土した土器で、図2がそのインダス文字の一部です。

ここで弓・人・木を模した図像と、そのインダス文字とに相関性があることを確認できると思います。

その図1の引用もとはこちら。
https://8023.teacup.com/shimoeda/bbs?M=JU&JUR=http%3A%2F%2Fwww.geocities.jp%2Fmine5_mh%2F104c.html

図2の引用元は下記のサイトです。
http://ufdc.ufl.edu/AA00013642/00001/1

1934年のハラッパー遺跡・インダス文字に関する論文ですが、同じく引用する図3のように、エジプトのヒエログリフ、原エラム文字などとの比較がなされています。(この文字比較図は、その論文でなされた文字比較のごく一部です)

原エラムについては下記のとおりです。

原エラム期(げん - き、英: Proto-Elamite period)とは、スーサ(後にエラムの首都となる)がイラン高原の文化から影響を受け始めた、紀元前3200年から紀元前2700年までの時代である。考古学の用語では、これはBanesh期後期に相当する。この文明はイラン最古であると認識されており、およそ紀元前3500年に始まった世界最古のシュメール文明と隣接し、ほとんど同時期に始まった。

原エラム文字は紀元前3000年頃(おそらくメソポタミアのウルク3期もしくはジェムデト・ナスル期(英語版)と同時期)一時的に使われた。一方、エラム線文字は同様に紀元前3千年紀の最後の4半千年紀に、一時的に使われていた時期があったことが証明された。・・・

原エラム文字が使われていた地理的な範囲は非常に広く、西のスーサから、東のテペ・ヤハヤー(英語版)まで、そしておそらくそれ以上に延びていた。原エラム文字はインダス文字に非常によく似ているとされてきた[2]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E3%82%A8%E3%83%A9%E3%83%A0



先の論文の文字比較表をすべて読むと、確かにヒエログリフ、原エラム文字との相関性があることはあきらかですし、その件は、すでに学会でも認められているようですね。

紀元前2700年前後を境にして、洪水などの何らかの原因で、この文字を用いていた民族が、エジプトの古王国のピラミッド造営し始める時期にヒエログリフを、またインドにインダス文明を、そして、縄文時代後期の縄文文明へと影響をっもたらしていったことが予想されます。

関連してこの時期の環状列石・ストーンサークルの拡大も同時に起こったのでしょう。そしてこれがまた東北・北海道にみえる環状列石の起源となるのですが、彼らが高度の測量技術を有していたことも確かです。

そのストーンサークルの拡大には、また先日も指摘したように、ケルト人の影響があり、また昨日紹介した吉村氏の「埋もれた古代文明の謎」によると、そのケルト民謡とインダス文明と関連するであろう叙事詩との間に、相関性を見いだしうることも指摘されているようです。

そして、ケルト人の用いていた文字と、アイヌや沖縄に伝わる結縄文字とが類似する件も先日指摘したとおりですね。

また遺伝子的にみると、以前古代史掲示板で指摘して会報にも掲載したように、HLAハプロタイプのうち、日本人に比較的多いHLA-B7の遺伝子が、ケルト人にも多いことがあります。

日本周辺におけるHLA-B7の分布についてはこちら参照。
https://blog.goo.ne.jp/japanorigen/e/0eb4d308d9b708c94126908121ea0532

このサイトを見ると、特に日本では、北陸・秋田方面、また沖縄方面に多いことがわかります。沖縄が入っているということは、縄文人の遺伝子とも関係しそうです。

HLA-B7の世界的な分布についてはこちらのwikiを参照ください。

https://en.wikipedia.org/wiki/HLA-B7

その分布表を見ると、アイルランド、欧州、アゾレス諸島、カメルーン、マリ,ウガンダ、サウジアラビア、日本、アフリカ、インド(ムンバイ・マドラス)、韓国などにも多くみえますね。

特に、そのムンバイなどのインド北西部は、先のインダス文明のあったところです。

中東から、サウジアラビア経由で、インド北西部に至るルートがあったのではないでしょうか。一部はアフリカ北部、また欧州へと移住していき、また一部は縄文後期の日本にまで到達する。

この辺の流れについて、また少し考えていきましょう!ご意見もお待ちしてます。
 

ピラミッド

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 7月12日(木)15時34分8秒
返信・引用 編集済
  ちょっと、こちらの掲示板の名称ですが、縄文・超古代史掲示板に変更したいと思います。そちらのほうが、書き込みやすくなるのではないかと感じますので。

それで、吉村氏の「埋もれた古代文明の謎」との本を読んでいたのですが、ピラミッドの女王の間から、シナイ半島由来とおぼしき鳴き砂が大量に見つかったとの記載を読んで興味深く感じました。

以前古代史掲示板や会報にも載せましたが、ピラミッド構築が開始された紀元前2690年前後には、ノア洪水伝承のもととなった洪水があり、それが685年周期で接近する隕石落下によって引き起こされた件がありました。

ただ、思うにクフ王のピラミッドはそれからしばらくのちの時代のものなので、そうすると、それ以後に再度同レベルの洪水があり、その際に、低い位置にある女王の間まで、はるばるシナイ半島の砂が津波によって運ばれた可能性がないかと感じます。

先の685年周期でいけば、紀元前2690年の次に接近したのが2004年前後、さらにその次が1320年ごろとなりますが、その1320年以降の比較的近い時期に、ツタンカーメンの墓が、洪水で水没したことが知られており、その洪水が、隕石由来のものと考えた経緯があります。

したがって、その時期の洪水の高さが、クフ王の女王の間の高さにまで至るものだったとすると、下記サイトの図のように、高さ136mのピラミッドの1/5の高さと考えうるでしょう。30m前後の津波が押し寄せたことになるでしょうか。http://electronic-journal.seesaa.net/article/19026666.html


それが、シナイ半島から砂を運んだとすると、ちょうど、ピラミッド周辺の標高が30m前後ですから、50m以上の津波、おそらくは沿岸部では100mを超えるような大津波が起こった可能性を感じますね。

地中海など、どこかに隕石が落下して、大津波をもたらした可能性を感じます。

それで、仮に紀元前2690年と前1320年前後に、双方大津波が引き越されたとすると、その間の2004年に起こらなかったとするならば、またそこに何らかの理由をかんがえる必要があるでしょう。

いや、起こったのだが地中海周辺ではなかったのか、あるいはやはり起こらなかったのか、この辺の問題について、もう少し考えていきましょうか。


 

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